春から、名人は工場の設備部門へ。決まったことを、情シスはいちばん後に知った。
インフラ担当 4月1日付 工場 設備部門へ。
あとは、日付と判子がひとつずつ。
この会社の情シスで、いちばん多く名前を呼ばれてきた人の異動でした。
12月の半ば、新しいリーダーは情シス課長に会議室へ呼ばれました。机の上に、人事の紙が1枚。課長はそれを、こちら向きに置き直しました。
「工場長からの希望だそうです。新しいラインの機械とシステムの、両方が分かる人がほしいと」
3行を読み、もう一度読む。「……それ、いつ決まったんですか」
「11月の終わりに。本人には先週、人事から」
席に戻る。インフラ担当は、いつもの姿勢で画面を見ていました。この情シスで、名人と呼ばれてきた人です。止まったサーバーを15分で戻し、工場が困れば真っ先に名前が出る。先週から知っていた人の背中は、先週と何も変わっていませんでした。
この春まで、新しいリーダー自身もヘルプデスクの席にいました。困ったら名人に聞く。聞けば、たいてい15分で片付く。この2年近く、そのやり方を少しずつ窓口とカードと台帳に移してきたつもりでした。それでも3行を読んで最初に浮かんだのは、「名人がいないと困る」でした。
その日のうちに、窓口に第二工場の事務から連絡が入りました。受けた窓口当番が、受話器を手でふさいでこちらを見ます。「名人さん、春からこっちに来るって本当ですか、って」
7人の手が、止まりました。
人事の発表より先に、話は工場から届いてしまった。その場で全員をホワイトボードの前に集めると、インフラ担当は短く言いました。
「4月から工場です。設備のほうに行きます」
それだけでした。誰も、口を開かない。沈黙を破ったのは、4月に入った中途のメンバーでした。前職は大手のSIer。机には、付箋をびっしり貼った分厚いITILの本が置いてある。
「だから、全部書くべきだったんです」
責める調子はありませんでした。ずっと前から分かっていたことを、確かめるような声です。11月に工場で使われなかった200ページの仕様書のことは、誰も口にしませんでした。それでも、「だから」の一語は刺さりました。だから、の向く先は過去です。前のリーダーが組んだ型と、それを4月から受け継いできた自分の9か月。
答えの代わりに、名人は立ち上がってマーカーを取りました。説明の前に、まず箱を描く。昔からの癖です。四角を3つ。ラインの機械、中継サーバー、出荷ラベル。その下に、横に長い四角をひとつ。工場のネットワーク。箱と箱を線でつなぎ、キャップを閉めてから言いました。
「書けるのは、この箱と線までです。線が切れる前に、どこに何が先に出るか。それは、書いても伝わる気がしません」
集まりが終わってから、申し送りノートを開きました。前のリーダーが経営企画へ移るときに残した引き継ぎ資料です。従うべき原則、ガバナンス、バリューチェーン、管理プラクティス、継続的改善。ITILのバリュー・システムの5つの部品で組んだ目次の余白に、新しいリーダーは4月から毎月1ページずつ書き足してきました。
名人が来られない日の備えなら、1年目に作ってあります。共通の窓口、カード、台帳、停電のときに戻す順番の1枚。けれど、どのページをめくっても、名人がもう来なくなる日の段取りは見つかりません。
経営企画の島は、同じフロアの反対側。歩けば1分です。席を立ちかけて、座り直しました。10月、来年度の要望を持っていったとき、前のリーダーは「今は判断できない」と言った。あちらの席に座った人に、こちらの席のことを聞きに行くのは、違う気がしました。
12月のページの余白は、白いままでした。
4月まで、3か月半。名人をもう一人育てるには短すぎて、何もしないでいるには長すぎる時間です。
本人は先週、新しいリーダーは12月の半ば、チームは工場からの電話で。同じ紙の3行でも、知った順番が違うと、うしろの子は別の顔をしています。
子は人ではなく、席につく。言葉がきつくなるのは、うしろの子が何かを怖がっているとき。6体の紹介は地図に
「……それ、いつ決まったんですか」
怖いのは自分の席を通らないところで、席の中身が動いていくこと
「4月から工場です。設備のほうに行きます」
怖いのは呼ばれなくなった席に、自分の居場所が残らないこと
「だから、全部書くべきだったんです」
怖いのは書いていないところで事故が起き、誰かが責められること
せきのこ ── 席のうしろの、小さな子たち
次の日、ホワイトボードに「名人の仕事」と書いて、その下に並べ始めました。サーバー、ネットワーク、工場、ベンダーとの段取り。10行も書かないうちに、手が止まる。書くほど、それは仕事の一覧から、一人の人の説明に変わっていきます。この説明に当てはまる人を、3か月半でもう一人育てる。書いた時点で、無理な計画でした。
横から、中途のメンバーが付箋だらけの本を開いて見せました。開いたページの見出しは「後継者計画」。今の担い手が抜けても仕事が続くよう、次の担い手を前もって育てておく、という項目です。その付箋にだけ、小さく日付が書いてありました。入社した週の日付です。
「4月に、ここに貼りました。前の現場で、手順のない切り替えがあったんです。翌日、いちばん若い担当が客先で頭を下げていました。書いてなかったのは、そいつのせいじゃないのに」
正しい、と新しいリーダーは思いました。名人の頭の中にしかないものは、4月に名人と一緒に工場へ行く。書いてさえあれば、残る。8か月前から、それに気づいていた人がいたのです。ただ、名人の頭の中には、この会社での何年分かが入っている。3か月半で全部を書き出すのは、名人をもう一人育てるのと同じくらい、届かない計画でした。
そこで、書く向きを変えます。「名人の仕事」を消して、「この情シスが回している業務」と書き直す。主な業務を20個。横に7人の名前。一人で回せる人に◎、補助ならできる人に○。全員で埋めていくと、1時間で表ができた。
自分の行は、名人が自分で埋めました。ほとんどが◎。けれど、勤怠の端末と会議室の映像機器には、○しか付けていません。「そっちは、もう窓口当番のほうが速いです」。本当のことしか言わない人の、本当の印でした。
表にすると、景色が変わりました。名人の列は、たしかに◎だらけです。それでも、名人のほかに◎が一人もいない行は、20のうち3つしかなかった。夏の2か月、育休でいなかった名人の代わりに台帳と土台を回した人たちの◎が、表のあちこちに付いていたのです。
表を眺めていた名人が、ホワイトボードの隅に残っていた昨日の箱を指さしました。「あっちの箱と線は、情報と技術。こっちの表は、組織と人材ですね。4つの側面のうち、自分が書けないと言ったのは、こっちのほうでした」
スキルの表で、名人のほかに◎が一人もいなかった3行のうち、いちばん急ぐのは新しいラインの中継サーバーです。止まれば、新しいラインのラベルが手書きになる。この1行を具体にします。誰が、どうやって、いつまでに。
土台の知識がある人なら、3か月で名人の隣から始められる。手が空いている人を選ぶと、土台から教えることになる。採用を待つと、名人と一緒に作業できる期間がなくなる
書けるところはカードにする。ただ、中継サーバーの癖は6月から名人の手の中で育ってきた。3か月で全部は書けず、読んだだけでは手が動かない。隣で見て、自分の手でやるのがいちばん速い
期限は日付より、確かめる場面で決める。訓練で一人でできれば、表の○が◎に変わる。日付だけの期限は、確かめないまま過ぎていく
育てた仕事が評価に入らなければ、教えるほど自分の席が消える気がする。1年目に名人が打ち明けたのと同じ形が、もう一度できてしまう
1行に4つの欄。どれも、表の上で決まった。名人の頭の中だけに置いてあるものは、この行にはもうない。
名人の形のまま穴を埋めようとすると、名人をもう一人探す計画になります。業務の形に分けると、穴の大半はもう埋まっていて、残りは3行でした。3行なら、3か月半で手が届きます。
目的:事業目標を支えるために、適切なスキルと知識を持つ人を、適切な役割に置く
名人の穴を、業務の形に分けて2人目を置く
1年目では 第2話 再起動の名人 で出会ったしくみ。
その週から、中継サーバーの前には椅子が2つ並ぶようになりました。名人がホワイトボードに箱を1つ描くたびに、中途のメンバーのノートが1ページ増えていく。
「そこは、書かなくていいです。触ればわかるので」
「書いておきます」
そんなやりとりが、何度も聞こえてきました。新しいリーダーは、止めませんでした。どこまで書けば足りるのかは、誰にも分からない。分かるのは、2月の停電の訓練で2人目が一人で手を動かしたときです。
そのあいだにも、話は工場の中を回っていました。電話が鳴る。新しいラインの担当からです。誰より早く手が伸びたのは、新しいリーダーでした。ヘルプデスクの席にいたころからの癖で、電話が鳴ると、考えるより先に受話器が耳にある。
「名人さんがいなくなったら、止まったとき、誰に電話すればいいんですか」
「大丈夫です。4月からも、何も変わりませんから」
受話器を置いて、気づきました。変わらないはずがない。4月から、ラインが止まっても名人は来ません。何も変わらないと聞いた工場は、何も備えない。安心させるつもりの一言が、いちばん大きな変化を隠していました。
次の日、同じ担当に電話をかけ直しました。「昨日のは、間違いでした。変わります。何が変わるのかを、説明させてください」
電話の向こうが少し黙って、それから「そのほうが助かります」と返ってきました。
情シスの中でも、窓口当番が小さな声で聞いてきます。「名人さんがいなくなって、私たちで工場を回せるんでしょうか」。人事に相談すると、返事は決まっていました。「正式な発表は1月の定例です。それまでは内々に」
1月まで待つのは、やめました。異動を決めたのは人事でも、異動で何が変わるかを伝えるのは、変わる場所のいちばん近くにいる席の仕事です。待っているあいだに、誰がどの順番で知るかは、噂が決めてしまう。
最初は、名人と二人きりの会議室でした。異動で何を失って、何を得るか。少し考えてから、名人は指を折って答えました。
「失うのは、工場から直接かかってくる電話。サーバー室の鍵。この島の、窓際の席」
それから指を開いて、「得るのは、ラインの機械を中から見られること、ですかね」
言われたとおりに、関係者の分析表の1行目へ書き写しました。2行目はチーム。失うのは、困ったら名人に聞けばいいという逃げ道で、得るのは、自分の名前で◎を付けられる業務。3行目が工場です。失うのは、名人に電話すれば来てくれるという安心。それなら工場には、4月からの窓口と、2人目の名前を一緒に届けなければならない。行を足すたびに、誰に、どの順で、何を添えて伝えればいいかが見えてきました。
チームには、名人のいる場で伝え直しました。失うものと得るものを、名人が自分の口で言う。聞き終えた窓口当番が最初に口にしたのは、「私の◎、どれから増やせばいいですか」でした。
人事の正式な発表は1月。けれど噂は、もう工場に届き始めています。誰に、どの順で、何を添えて伝えるか。
先にやるものから順に押してください。
伝える順番は、失うものの大きい順だった。本人、チーム、工場。人事の発表の日を待っていたら、この順番は噂が決めていた。
変化を受け止めてもらう仕事は、人事に預けられませんでした。何を失うかは、失う人の席の近くにいる者にしか聞けないからです。分析表を書くと、伝える順番は、失うものの大きい順になりました。
目的:変化の「人の側面」を扱い、組織の変更を円滑に成功させ、効果を長続きさせる
異動を、失うものと得るものから伝え直す
1年目では 第7話 誰も使わない新しい仕組み で出会ったしくみ。
情シスの島のホワイトボードの右端には、工場が止まったときの連絡先が書いてあります。いちばん上は、ずっと名人の名前でした。
名人あての直接の連絡は3月31日で終える、と決めた日。マーカーを取ったのは、名人自身でした。自分の名前を消し、その下に、中継サーバーの2人目になった中途のメンバーの名前を書く。少し考えてから、ボードの右下の隅に、小さく自分の名前を書き直しました。横に「相談先(4月から工場 設備)」。
キャップを閉めるまでに、いつもより少し時間がかかりました。
次の週、第二工場へ行きました。工場長に、なぜ名人を希望したのかを聞くためです。人事の紙には、理由までは書いてありませんでした。
話は、新しいラインの横で聞きました。ラインの終わりで、出たばかりのラベルが段ボールに貼られていきます。ラインの脇の小さなホワイトボードには、6月からの止まった回数が正の字で書いてありました。欄は3つ。「設備」「システム」「不明」。いちばん正の字が多いのは、「不明」の欄でした。
「6月から、このラインが止まるたびに、機械屋は『システムのほうだ』と言い、情シスは『機械のほうだ』と言う。どっちの持ち場か決まるまでに、半日かかった日もある。両方が分かる人が、こっちの側に一人ほしかった」
少し間をおいて、工場長は付け足しました。「情シスから取ったつもりは、ないんだが」
帰りの電車で、窓口ができてからの工場の記録を絞り込んでみると、半分近くに名人の名前が出てきました。「名人さんに聞いたら」「前に名人さんが」。情シスと工場の付き合いだと思っていたものの半分は、工場と名人の付き合いでした。名人が工場へ移れば、その半分は名人と一緒に向こうの席へ行く。
変更の日を工場長と一緒に決め、ラインを止めないという目標も分け合うようになって、1年目から情シスと工場の付き合いは少しずつ深くなってきました。それでも、止まった瞬間にまず確かめるのは、原因が自分の持ち場かどうかでした。持ち場の境目に立っていたのは、名人という一人の人だけだったのです。
4月からも、境目に立つ人は同じです。変わるのは、立つ場所が情シスの側から工場の側へ移ること。それなら、工場と名人の付き合いを、工場と情シスの付き合いに組み替えればいい。新しいリーダーは、工場長にひとつ提案しました。月に一度30分、工場長と、設備部門の名人と、情シスで話す。物差しは、ラインが止まった時間。原因がどちらの持ち場でも、同じ1本の数字として一緒に数える。
工場長は黙って、手帳の4月のページを開きました。
ITIL 5は、サービスの関係を深さで3つに分けます。基本的=取引が中心で、リスクはそれぞれが持つ。協調的=共通の目標に向けて連携するが、リスクと報酬はほぼ別々。協働的=情報を常に開き、リスクと報酬を分かち合う。
関係は、深ければよいわけではない。マウスを買う相手と、目標もリスクも分かち合う必要はない。深くする相手を選び、そこに時間を使う。
名人の異動は、情シスの席から見れば、一人減る話でした。工場の席から見れば、ラインとシステムのあいだに橋が一本かかる話になる。関係の深さを相手ごとに選び直すと、名人の新しい席は、情シスがいちばん頼りにできる相手の席になりました。
目的:組織と関係者のつながりを、戦略と戦術のレベルで築き、育てる
名人の異動を、工場とのあいだの橋に変える
1年目では 第5話 緑の報告書、赤い顔 で出会ったしくみ。
4月から、窓際の名人の席は空きます。それでも3体の子は、少しだけ顔を上げました。顔を上げさせたのは、名人の代わりの誰かではありません。人と役割と関係の組み替えです。
怖がっていたこと自分の席を通らないところで、席の中身が動いていくこと
怖がっていたこと呼ばれなくなった席に、自分の居場所が残らないこと
怖がっていたこと書いていないところで事故が起き、誰かが責められること
中途のメンバーのうしろの子は、まだ半分しか顔を上げていません。表に書いた「2月の訓練」で2人目が一人で止めて戻せるかどうかは、その日が来るまで分からないからです。
番号と分類はITIL 4の並べ方です。ITIL 5の試験で押さえるのは「プラクティス=資源のまとまり」と2つのグループまで。
せきのこ ── 席のうしろの、小さな子たち
白いままだった12月のページに、ようやく字が入りました。前のリーダーの字の横に、新しいリーダーの字で。
Q1. 名人が抜ける穴を「名人の仕事」として書き出すのをやめ、情シスがいま回している20の業務に、7人がいま付けられる◎と○を書き込むところから始めた。夏の育休のあいだに付いた◎も、そのまま数に入れる。従うべき原則のうち、いちばん近いものはどれか。
A。作り直す前に今あるものを評価し、使えるものは使う原則です。名人をもう一人育てる計画は、すでに付いていた◎を見ないまま、ゼロから組み直そうとしていました。「何も変えない」という意味ではないので、残った3行には2人目を置いています。
Q2. 1年目から、情シスと第二工場は変更の日を一緒に決め、ラインを止めないという目標も分け合ってきた。それでも、止まった瞬間にまず確かめるのは、原因が自分の持ち場かどうかだった。ITIL 5のサービス関係の3つのタイプでいえば、この時点の関係はどれか。
B。共通の目標に向けて努力は連携しているものの、止まったときのリスクはまだそれぞれが持っています。情報を常に開き、リスクと報酬を分かち合う協働的な関係は、4月からの設備部門との月に一度の30分で目指すもの。浅い順に、基本的→協調的→協働的です。Dは関係のタイプではなく、必要なサービスと期待するサービスレベルを文書で取り決めたものです。